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毛利隆元が、後奈良天皇に再建の綸旨を賜って、この寺を由緒ある大内氏館跡に建立し、大内義隆の菩提寺としたものです。この後、明治14年(1881年)に本堂が焼失したため、その再建に際し、氷上山興隆寺の釈迦堂を移築したのが現在の本堂です。本堂の建立は、その様式などから室町時代後期といわれています。桁行5間、梁間5間で、入母屋造り、内部の大虹梁、板蟇股、ケヤキ材の胴回り約150cmの太い丸柱など、当時の大内氏の財力をうかがうことができます。
本社は文中2年(1373)に大内弘世が京都の北野天神から神霊を迎え、山口の北野小路い創建したものです。後に毛利秀就が、元和4年(1618)に現在地に移したと伝えられています。本社殿は室町時代に建立されたものを現在地に移築したもので、本殿と幣殿、拝殿が結合されています。本殿は入母屋造り、拝殿は本殿とほぼ同時代のもので、二重入母屋桜門造り両翼廊切妻です。この桜門が拝殿を兼ねた造りかたは山口地方独特のものです。拝殿と本殿は、国の重要文化財に指定されています。
洞春寺境内にある山門は、前後に控え柱のある桁行7.27m、梁間3.35mの四脚門で、屋根は切妻の桧皮(ひわだ)葺き。この門は、大内盛見がこの場所に、1400年(応永7年)頃に開基となって建てた国清寺のもので、山門も同時期のものと考えられます。その後、国清寺は大火で焼失しているが、山門は離れていたので残ったと思われます。山門は近年解体修理されて桟瓦葺きの屋根は桧皮(ひわだ)葺きに復元されてています。
野田神社の南、小高い丘にあります。大内義興が文亀3年(1503)の創建と伝えられ、楼門、拝殿および本殿を具備し、山口地方特有の社殿配置として有名な神社で、国の重要文化財の指定をうけています。
創建は、建永元年(1206)で初めは白石の地にあり、宝珠山瑞雲寺といい、臨済宗のお寺でしたが、享徳3年(1454)に大内教弘が曹洞宗に、寺号も瑞雲山龍福寺と改めた。弘治3年(1557)4月に大内義長が毛利氏によって亡ぼされ、そのあとをついだ毛利隆元が大内氏館跡に大内義隆の菩提寺として建立した。明治14年焼失したため、現在の本堂は、明治16年氷上興隆寺の釈迦堂を移築したもの。
寺の創建は寺伝によると大同元年(806)といわれ、千手観音菩薩立像を本尊とする真言宗の寺院で、山口盆地最古の寺院といわれています。はじめ天台宗でしたが、室町時代に真言宗に改宗したと言われます。観音堂は明応2年(1493)大内政弘が建てたものといわれ、残っている様式や組物には室町時代の禅宗様式の特色がよくでていて貴重な建物です。昭和42年に県の文化財に指定されました。
雪舟築庭の庭園があることから,俗に“雪舟寺”として知られている。永禄7年(1569)、毛利元就が早死した長子隆元の菩提のため創建。文久3年(1863)現在地に移転された。
正平24年(1369)大内弘世が京都八坂社から勧請して創建されたと伝えられている。はじめ竪小路に創建されたが、後に水の上に、また永正16年(1519)に鴻ノ峯の麓に移し、翌年(1520)社殿を新築した。元治元年(1864)毛利敬親が萩から山口に藩庁を移すにあたり、社殿を現在の地に移した。本殿は国の重要文化財。境内には築山神社がある。例祭(7月20日〜27日)の山口祇園祭は山口で最もにぎやかな祭である。
永正17年(1520年)に建立されたもので、三間社流造りで、屋根は桧皮葺きです。本殿の周囲及び向拝の斗きょう間には13個の変化に富んだ蟇股があります。大内弘世が1370年(応安3)に京都の祇園社から勧請した神社といわれ、現在の本殿は、大内義興が再建したものとして知られています。
永正17年(1520)大内氏30代義興が勅許を得て伊勢神宮から分霊を勧請して創建した。社殿は、伊勢神宮と同様な形式の神明造であり、当時伊勢の神霊をむかえた神社は、この大神宮だけであったので、お伊勢信仰の盛んであった江戸時代には、西のお伊勢様といわれ、多くの参拝客があったといわれている。