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白河結城氏12代義親が天正14年(1586)に、母の七回忌にあわせて創建し、母の法号「福聚院月心宗悟大姉」から寺号を取ったと伝えます。当時は関川寺境内にありましたが、白河藩主松平基知の時代(1695〜1729)に現在の場所に移されたと伝えられています。
天正3年(1575)、関川寺の住職を退隠した得峯和尚が開山したと伝えます。その後、万治元年(1658)になって、呑陂和尚が同寺を中興し、「万治寺」と号したと言われています。のち「治」は現在の「持」に改めています。
鎌倉時代に時宗の開祖・一遍上人が遊行の途中、白河藤沢の地に創建したと伝えられます。藤沢の地には後に白川城(搦目城)が築かれ、また小峰寺は南北朝時代に小峰(白河)城内に移っており、白河結城氏と密接な関係がうかがえます。現在の場所に移ったのは丹羽氏(1627年入封)の時代です。なお、小峰寺は歴代の遊行上人が全国を遊行する際、逗留して布教を行う場所となっていました。
14世紀中頃、鏡範上人による開山と伝えられる寺で、結城宗広の菩提を弔っていたようです。白河結城家と何らかの繋がりがあったと考えられます。龍蔵寺と同様に、多数の末寺を持っていました。
標高619mの関山の頂上にある山岳寺院で、聖武天皇が天平勝宝7年(755)、光明皇后の追善と万民のため、行基菩薩を開山として建てた寺院で、本尊の聖観音は天皇の持仏と伝えられています。また聖武天皇御願所という勅額も伝来しています。
永享年中(1429〜40)、結城直朝を開基とし、慶宇禅師を招いて開山として建てた坊ノ入(双石地区)の堂宇が前身と伝えられています。この僧は楠正成の三男で、新潟県など、いくつかの地方寺院も創建しています。現在地に移ったのは室町時代後期と考えられています。
最勝寺は白河城下の鎮守・鹿島神社の神宮寺でした。廃仏毀釈により明治6年に廃されましたが、観音堂(正徳元年〈1711〉建立)と弥勒堂が現在まで残されています。鹿島神社は白河結城氏の氏神で関係も深かったため、その関連の文化財がいくつか伝来しています。
永応15年(1408)に円順和尚によって開山(中興開山か)と伝えられます。
大同年中(806〜10)に現在の寺小路付近に法相宗の僧、勝道が建てた勝道寺が前身と伝えます。のち、平安時代末期には三十三間堂などの堂宇をもつ寺院として再興され「大白山天恩皇徳寺」と号しました。現在の地に移ったのは丹羽氏の時代とされています。
白河の関を通る東山道。