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旧湯川家屋敷

江戸時代の藍場川を利用した生活が残る建物。内部見学が可能で水を引き込んだ庭園や水回りが珍しい。観覧料1人100円。

落合の石橋

長さ2.4m、幅1.7m。石組みの川岸から川に張り出させた大きな石を橋げたにして、上に板状の石を載せた県内特有の工法で、江戸後期のものと思われます。萩往還の途上にあります。

鹿背隧道

幅4.2m、延長180m、高さ3.8m県内初の石巻工法によるもの。明治15年着工の県道小郡萩線にあります(現県道とは違う)。藩庁移転後の萩の回生への期待がこめられた隧道で、山口県下最初の石造洋風隧道として記録されています。120年近く経過していますが、立派に現役です。

梅屋七兵衛旧宅

梅屋七兵衛は、造り酒屋を営む町人であり、毛利忠正公の武具方の調達もしていました。木戸孝允などの志士と交流があり、幕末に藩の密命を受け長崎に鉄砲千丁を買いに行くことになりました。イギリス人と鉄砲を買う契約を結びましたが、長崎奉行に見つかったので、上海に逃れて1年間一人で暮らしました。その後、ようやくイギリス人に迎えに来てもらい、鉄砲千丁とともに帰ってきました。この鉄砲により長州藩が戊辰戦争に勝ち抜くことが出来ました。七兵衛は、維新後、京都で商売をしますが、晩年に萩に戻り、この家で小堀遠州流派のお茶を教えながら過ごしました。

旧久保田家住宅

久保田家は、初代庄七が藩政時代後期に近江の国(滋賀県)から萩に入り、熊谷町の久保田家の分家となり、菊屋家の向かいで呉服商を開いたと伝えられている。二代庄次郎のとき酒造業に転じ、造り酒屋の「あらたま酒店」を営業していた。また明治時代、しばしば名士の宿舎としても利用された。旧久保田家は幕末から明治前期にかけての建物として、意匠、構造、技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況をよく伝えており、史都萩城城下町を形成する建物として極めて重要です。

伊藤博文別邸

東京都品川区にあった建物の一部を、萩市が無償譲渡を受けて伊藤博文旧宅側に移築したものです。

熊谷家住宅

1754年(宝暦4)以来、萩藩の御用達として栄えてきた豪商熊谷家の住宅建築です。現在の住宅は、熊谷五郎右衛門が分家して1768年に新築したものと伝えられ、広大な屋敷地に主家のほか、離れ座敷、土蔵など十数棟が建ち並んでいます。

明倫小学校本館

史跡有備館に合わせた意匠で明倫館跡に建てられた木造小学校舎。国登録有形文化財です。

花江茶亭

萩城跡のある指月公園内にあります。もと三の丸の藩主別邸花江御殿の茶室を移築したもの。幕末期の藩主敬親は、尊攘の志士とこの茶室で茶事に托して時勢を論じ、国事を画策したといわれています。市指定有形文化財になっています。

伊藤博文旧宅

茅葺き平屋建ての小さな建物。博文は、14歳から13年間両親とここに住み、萩の松下村塾には17歳より通いました。

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