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松陰は、実家杉家の4畳半の一室で前後2回幽囚生活を送り、読書のかたわら家族や弟子に書を講じ続けていたといわれています。近くに松下村塾、松陰神社があります。
長州藩の藩校跡で、亨保4年(1719)毛利吉元が城内三の丸の創設、嘉永2年(1849)毛利敬親が江向に移しました。明倫小学校・萩商業高校・萩裁判所の約14,349坪がその跡地で、現在明倫小学校の敷地内に剣槍場の有備館、遊泳術、水中騎馬の行われた水練池、その傍に、聖廟の東塾・西塾を合併して移した聖賢堂があります。なお明倫館聖廟の建物は、現在北古萩町の海潮寺の本堂に移され、また南門は本願寺院の表門、観徳門は明倫小学校に現存しています。
松陰に学び、尊皇攘夷の志士として周旋。維新以後、内務大臣などを歴任しました。
萩出身の総理大臣・桂太郎が少年時代を過ごした地に1948年建てた屋敷。藍場川の水を引き込んだ庭園が美しい。
永代家老福原家の旧宅の一部を移築したもので、江戸中期の建築です。
公武一体航海遠略策をもって藩命を受け公武の間を周旋し、のち失脚して切腹しました。
萩市堀内にある武家住宅です。口羽家は、萩毛利藩の藩士で、この住宅のある堀内地区は、藩内でも大身の武士が住んでいた場所です。
木造2階建て、瓦葺きで、12部屋あり、当時のままの姿をよく残しています。実父の和田昌景は藩医だったので、藩医の生活を知る資料でもあります。
萩城下町の町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。東西にのびる表通りの御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、御成道から南へ入る3つの横町には、それぞれの名が残されている。伊勢屋横丁には萩出身で初代群馬県令となった楫取素彦が、12歳のときに養子となった小田村伊之助の宅があった。
藩の豪商・菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地がある横町。なまこ壁の美しいこの横町は「日本の道百選」の一つに選ばれている。萩城下町の町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。東西にのびる表通りの御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、御成道から南へ入る3つの横町には、それぞれの名が残されている。