富沢馬頭観音
富山馬頭観音は最上三十三観音第31番目の札所。境内には、満州事変や太平洋戦争の時、遠い戦地で無くなった愛馬を弔う碑も建てられています。我が娘と同じく心を砕いて育てた馬が、戦いで倒れたとなれば、このようにして供養してやるのが、せめてもの農民の慰めでありました。最上町は、昔は小国郷と呼ばれ、当国切っての名馬を産する馬産の地でした。ここで産する馬は、小国駒といい、山形、秋田、越後地方まで移出されていました。当時の出羽国の名産番付にも、新庄領内の名産番付にも小国駒の名は記されています。昔この地方では、馬は飼うものでなく、造るものだといったそうです。人々は「馬造り講」を開き、春秋2回、伯楽を招き、馬の健康診断をうけ、各自の馬造りの秘訣を披露し合っいました。講の日は夫婦とも出席、餅を搗き、盛大な振る舞いを行ったそうです。正月には、富山馬頭観音別当東善院の住職を招いて厩祈祷をしてもらい、門口に守護札を貼って馬の無事成長を祈りました。万一にも病気にでもかかれば、改めて東善院からお守りを申し受けてきて、これを水に浮かべて馬に呑ませたそうです。このような背景により、富山馬頭観音の縁日の祭りはとてもはなやかでした。参道両側に露天がびっしりと立ち並び、終日、美々しく着飾った遠郷近在からの参詣人で喧騒を極めました。東善院に伝えられている縁起書によれば、富山馬頭観音のご本尊は慈覚大師が刻んだ馬頭観音像であるといいます。馬頭観音は馬のように速く駈けて仏の教えを広める神様というが、これが農家の馬の守護神として拝されることも、大いに故のあることでしょう。