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蝦夷穴古墳

この古墳は、現在、墳丘裾部【ふんきゅうすそぶ】が削平されているため当時の形を留めていませんが、直径約36m、高さ約4〜5mの円墳と考えられます。死者を埋葬する横穴式石室【よこあなしきせきしつ】は墳丘の南南東に開口(当時は埋葬後閉じる)しており、入り口から石室の奥壁まで約11mもあり、東北地方では最大級のものです。石材は凝灰岩で、奥壁の一枚と天井石の2枚は特に巨大で、当時の土木技術水準の高さをみることができます。石室からの出土品は明治時代の発掘により、金銅製頭椎大刀【こんどうせいかぶつちたいとう】をはじめ多数の副葬品が発見されたことから、当地方を支配していた有力な豪族の墓であったと考えられています。出土品は、現在東京国立博物館に収蔵されています。

稲村御所

奥州公方足利満貞が40年間にわたり居館した館跡で,現在も土塁・空ぼりが残っている。

大塚古墳

この古墳は、現在墳丘裾部【ふんきゅうすそぶ】が削り取られているため当時の形を留めていませんが、市内に点在する古墳の中でも、大字和田地内にある蝦夷穴古墳【えぞあなこふん】と並んで大きく、直径約30m以上の円墳だったと考えられます。死者を埋葬する横穴式石室は、墳丘の南に開口し、入口(羨道部【せんどうぶ】)から石室【せきしつ】(玄室【げんしつ】)の奥壁まで約8m、石室の高さ約2mで、蝦夷穴古墳の石室とほぼ同じ規模をもっています。石材には凝灰岩を使用し、奥壁・床・天井・側壁の一部には巨大な一枚石を使用し、そのほかの外壁などには比較的小さな割石を積み上げています。6世紀後半ごろに築造された当地域の有力な豪族の墓であったと考えられます。

須賀川一里塚

一里塚は今から約370年前の江戸時代に、当時の将軍徳川家康の命により全国の主要街道を改修した際築造されたものといわれています。一里塚は街道を行き来する際、距離を計る目安として、江戸日本橋を基点に一里(約4km)毎に築いたものです。須賀川の一里塚は、奥州道中(旧陸羽街道)に残る数少ないもので、東のものは径5m、西のものは径6mあり二基相対し塚形がよく保存されている点では奥州道中唯一のものであり、日本橋から59番目のものとされています。また、当時塚の上には榎【えのき】が植えられていたと伝えられ、街道を行き来する人たちが木陰で一休みする場としても利用されていたと考えられます。

舘ケ岡磨崖仏

岩壁を彫りこんでつくった阿弥陀如来座像の磨崖仏

上人壇廃寺跡

この遺跡は昭和36年、JR東北本線複線電化工事に伴う発掘調査以降、数度にわたり発掘調査を行いましたが、その成果により奈良〜平安時代の貴重な遺構、遣物が発見されました。全国でも発見例の少ない六角瓦塔【ろっかくがとう】をはじめ、数多くの瓦、円面硯【えんめんけん】(高台のついた円い硯【すずり】)、土器類、さらに、規格性をもった堀立柱【ほったてばしら】建物跡などが検出され、当時の当地方における政治的施設と考えられています。特に続日本記【しょくにほんぎ】に記載されている養老2年(718)の石背国設置(石背郡がそれまでの統治国であった陸奥国から分かれ、白河・会津・安積・信夫の四郡とともに石背国の統治下になった)に深く関わる遺跡と考えられています。

神成横穴古墳群

岩壁を彫りこんでつくった古代の集団墓跡。

米山寺経塚群

承安銘の経筒が発掘された。また,近くに平安朝の寺院跡が確認され,現在公園化されている。

ムシテックワールド

営業時間:9:00〜16:30

昆虫をテーマにその生態や原理を学習したり、先端科学を楽しく体験できる施設。

神炊館神社のエドヒガン

樹齢およそ300年になる12本のエドヒガンが見事な花を咲かせます。この野生種であるエドヒガンの種子は、ソメイヨシノを育成するための台木用として国内でも大変貴重なもので、ソメイヨシノの養成に活用された毎年1万本もの苗木は、国内はもとより世界に輸出されていることから、この神炊館神社のエドヒガンは世界に植生されている桜の母親とも言えます

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