有島武郎の歌碑
有島武郎は大正12年4月30日、秋田雨雀・波多野秋子らとともに鳥取砂丘に来遊してつぎのような歌を詠んだ。「浜坂の遠き砂丘の中にして淋しき我をみいでけるかも」そして、その年6月9日、軽井沢三笠山の別荘浄月庵で、波多野秋子とみずから死を選んだ。この和歌により鳥取砂丘は一躍世に知られるにいたった。昭和34年4月19日、鳥取砂丘砲台一里松の場所をえらび、鳥取文化財協会・鳥取市観光協会によりこの歌碑の除幕式が行なわれ、同時に鳥取市への贈呈式が行なわれた。この和歌の碑の文字は妹山本愛子氏によって書かれている。