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休館:月
岡倉天心が自分の邸のあったこの地に日本美術院を移し、近代日本美術の本拠地としたが、昭和30年に茨城大学の研究所となった。ここには天心の遺品などが展示され、研究所の近くは、天心の旧邸、天心記念館、記念碑などがある天心遺跡記念公園となっている。
二ツ島の眺めが素晴らしく、家族連れに人気。震災前の写真です。
平潟洞門の碑は、安永7年(1778年)に、洞門掘削工事に関わった人々の誠意と努力を後世に伝えるために建てられた。元来、平潟から九浦に通じる道は牛馬も通れないほどの急な坂道だったが、この洞門の完成により人々の往来が非常に便利になったと伝えられている。
営業時間:9:00〜16:30(入館は16時迄) 休館日:第1/第3水曜日は休館日
太平洋を一望できる眺望のよい場所にあり、約700平方メートルのドーム型の建物の中に700度に上るガラス炉を設け、ガラス工芸家による指導を受け吹きガラスづくり、バーナワークが体験できます。またギャラリーにはガラス製品も展示されてます。
雨情は明治15年(1882年)磯原町の野口量平の長男として生まれ、本名を英吉といった。磯原尋常小学校(現在の精華小学校)を卒業すると、政治家の叔父野口勝一氏のもとから東京専門学校(現在の早稲田大学)に学んだ。明治37年頃、作詩生活に入り、最初の詩集「枯草」を出版した。大正10年頃になると、北原白秋、西条八十とならんで三大童謡詩人とうたわれ、昭和20年、64歳でなくなるまで、全国各地を旅し、多くの民謡集や童謡集をつくり、現在でもたくさんの人々に親しまれている。雨情の生家は廻船問屋で、明治15年当時、観栄丸と観音丸の運搬船を所有していた。昭和42年3月30日、茨城県の文化財に指定された。
征夷大将軍、坂上田村麻呂の創建とも、慈覚大師の開基とも言われる。樹齢500年を越える大杉、高野槙の巨木が立ち並ぶ。春はシャクナゲが境内をおおう。
大観宅のさらに北側、蛇頭と呼ばれる中磯を見下ろす断崖の上にあった。大観らは毎日この研究所に通い、35畳敷の正員室で創作に取り組んだ。現在は、天心遺跡記念公園として整備されている。天心は、1913(大正2)年新潟県赤倉の山荘で世を去った。東京染井墓地に埋葬されたが、遺志により五浦に分骨された。質素な土饅頭の天心の墓が残っている。日本美術院は、天心死去の翌年、東京の谷中にもどり再建されるが、天心に代って大観が日本美術院の指導者として日本画の発展に尽した。代表作に「無我」「生々流転」(1923年、国重文)がある。
花園神社拝殿前に左右2本のコウヤマキがあり、樹齢600年を数える。茨城県内には自生例が無いため、このコウヤマキは祈願者が奉納したものと思われる。2本ともに樹姿も美しくコウヤマキでは県内随一の巨樹である。
坂上田村麻呂が奥州に向かう途中に創建したといわれる壮厳な花園神社と奥の院の一帯にひっそりと群生している。ピンク色の素朴な花をつける様は一見の価値あり。
花園神社境内にある樹齢500年の杉で、地上10mのところから3本に分かれているので、通称三本杉と呼ばれている。