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明治時代の政治家。参議、内務卿、大蔵卿となる。新政策を推進し官僚として手腕を振るったが、明治11年に不平士族島田一郎の凶刃に倒れた。
徳川家創業の功臣、寛永16年(1639年)没。墓の後方が忠僕一心太助の墓。
砲術に秀でていたが仏門に入り後、ロシアに渡海した(都指定史跡)。
江戸中期の儒学者。天明4年(1784)没。青松寺は文明8年(1476)太田道潅の創立である。
三田寺町の中にある長松寺の境内墓地の最も奥。
1701年(元禄14年)3月14日に切腹した浅野長矩の遺骸は菩提寺の泉岳寺に葬られた。墓は高さ2m余り、笠石のない1本石の墓石が立つのみで、大名の墓らしくない。隣に立つのが長矩の夫人である瑶泉院の墓。これには大名の奥方にふさわしく、笠石が載せられている。四十七士の墓は玉石垣に囲まれており、大石良雄、主税父子の墓を軸に10人、10人、10人、6人と四角に並び、中央に5人ずつ2列に並んでいる。
江戸時代の数学者。はじめ中西流入江応忠に学び、ついで関孝和の学統を継ぐ山路主住の門に入って関流の奥義を皆伝した。六圓無有奇術を創案し、よく関流中興の祖と称された。後新庄藩に仕えたが寛政10年(1798年)没す。墓碑は直円の死後直ちに建立された。
江戸中期の絵師。享保9年(1724年)没。