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吉田松陰東送の碑

安政6年(1859)5月25日午前9時ごろ、江戸幕府により東送を命ぜられた吉田松陰は、唐丸籠に乗り、食事ができる程度にゆるく手を縛られ、小雨の中萩を後にしました。途中、小休止をとった萩往還沿いの夏木原で、日本の現状を憂い、行く末を案じて詠んだ詩が石碑に刻まれています。

元寇の碇石

中国の元が日本に来襲した元寇の役(1271)の際、碇に使ったとされる石。長さ2.8mで、色は暗紫色の石です。

吉見正頼息女の墓

石州三本松(津和野)城主吉見正頼が阿武郡を支配していた頃、この地に休憩所を設け、正頼の息女を住まわせていたが、天正8年(1585年)8月26日萩の指月邸において病死し、この地に葬った息女の宝篋印塔です。

大内義隆供養塔

室町時代の守護大名大内義隆が長門市大寧寺で自害、側室の子息が忍び逃れ、御舟子の養雲院の住職となり、義隆卿、正室、側室を供養するため建立した石塔が三基あります。萩市指定有形文化財。

大照院本堂・庫裏・書院・鐘楼門・経蔵

大照院は、萩藩二代藩主毛利綱広(つなひろ)が再興し、明暦2年(1656)までに本堂以下の建物を整えた臨済宗寺院です。大照院には、初代藩主秀就(綱広父)をはじめ、二代以下の毛利家歴代(偶数代)の墓所があります。現在の伽藍は、延享(えんきょう)4年(1747)火災後の再建になるもので、本堂、庫裏、書院、鐘楼門が寛延(かんえん)3年(1750)、経蔵が宝暦(ほうれき)5年(1755)です。

野山獄・岩倉獄跡

萩藩の牢獄跡で、武士が野山獄、町人や農民は岩倉獄に入れられました。市指定史跡。安政元年(1854)に海外密航に失敗した吉田松陰は野山獄、その時の従者金子重輔は岩倉獄に投ぜられました。野山獄跡には十一烈士の碑、岩倉獄には重輔絶命の詩碑と松陰が重輔に与えた詩碑が建てられており、萩藩の波乱に富んだ維新当時を偲ぶことができます。

萩藩主毛利家墓所(東光寺墓所)

この墓所は、山口市に所在する香山墓所、萩市に所在する旧天樹院墓所、大照院墓所とともに、長州藩36万石の藩主の墓地。東光寺墓所は萩市椿東にあり、この墓所には3代藩主毛利吉就のほか、5代、7代、9代、11代の歴代藩主及び夫人の墓があります。

藍場川

6代藩主の開削した運河で、萩城下の経済や生活におおいに役立ちました。当時の水の利用の様子がわかる旧湯川家屋敷や、内閣総理大臣を3度つとめた桂太郎旧宅が残ります。現在では、鯉が放流され、周辺の風情は萩の中でも印象の深いところです。

萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)

この墓所は、山口市に所在する香山墓所、萩市に所在する大照院墓所、東光寺墓所とともに、長州藩36万石の藩主の墓地。旧天樹院墓所は、萩市堀内にある毛利輝元の墓所で、天樹院は現在は廃寺となっています。

萩藩主毛利家墓所(大照院墓所)

この墓所は、山口市に所在する香山墓所、萩市に所在する旧天樹院墓所、東光寺墓所とともに、長州藩36万石の藩主の墓地。1651年(慶安4)初代藩主毛利秀就の死後、旧観音寺跡に墓地造りを始め、1656年(明暦2)に大照院を完工しました。この墓所には、初代藩主毛利秀就のほか、2代、4代、6代、8代、10代、12代の歴代藩主及び夫人の墓があります。

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