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営業:8:00〜17:00
真田幸村とその子大助の供養の為に真田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てた寺です。宰相山公園の西側にあり、心眼寺から南へはお寺が続いています。
営業:7:00〜17:00※自由にお入りいただけますが、堂内の拝観はご遠慮下さい。
大坂の陣で活躍した豊臣方の武将「薄田隼人」が、この地で亡くなり、その墓が建立されています。薄田隼人は「岩見重太郎」の別名でも知られています。
四天王寺夕陽丘の一角にあり、「十三まいり」のご利益で知られる寺。もとは四天王寺の境内にあったひとつの堂宇だったが、戦国時代の弘治元年(1555)ごろ、四天王寺の境内が縮小されたため、同寺は外に取り残され、真言宗の龍翔寺となった。その後、寛文3年(1663)、僧のぎんえつによって、曹洞宗禅寺・太平寺として開山され、現在に至っている。安置されている虚空蔵菩薩は、知恵と福徳を持った菩薩とされ、縁日の3月13日と4月13日に、十三歳になった子どもがその知恵を授かりに参るのが「十三まいり」の古くからの信仰。「知恵まいり」ともいう。江戸で盛んだった「七五三まいり」に対して、大阪や京都では「十三まいり」が一般的だったそうだ。また、境内には手芸技芸上達の守り本尊の茶筅(ちゃせん)塚、針塚、筆塚があり、長年使い慣れ親しんだ茶筅や筆、針の供養に訪れる人が多い。
営業:6:00〜18:00
もともとは元和9年(1620)僧義春によって曹洞宗の寺として真田山に開創され、1623年にいまの場所、減聖寺坂を上がってすぐ左手のところへ移転。志摩国領主稲葉家の菩提寺でもあった。江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所で、いまも大樹古墓の多い風格のある寺として知られる。境内には、幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。また、御方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音には、病気平癒を願って訪れる参拝者が多い。
減聖寺坂を上がってすぐ右手、天正19年(1591)豊臣秀吉の城下町建設の一環として寺町が建設される中、現在地に光明寺第24世住職・縁譽上人休岸によって創建された寺。当初は「大福寺」と称したが、秀吉が中国の金山寺に劣らぬとして寺号を「銀山寺」に改名。秀吉の守り本尊と伝えられる雨宝童子立像が安置されているほか、秀吉の画像、朱印状などが伝わる(大阪城にて保存)。また創建当時のものとされる木造阿弥陀如来立像は、右肩背面に貝殻が付着していることから、海中から引き上げられた仏像と考えられている(像高77.5cm、平安後期)。境内には、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎門人松本乾知と父寛吾をはじめ、俳人・医者・儒者であった岡西惟中や、近松門左衛門「心中宵庚申」のモデル、お千代・半兵衛のほか、2006年に亡くなった昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い・吉田玉男の墓がある。境内の桜が咲き乱れる春に参拝するのがおすすめ。
営業:11月上旬〜3月末9:00〜18:45まで(最終入場は18:00まで)設備点検のため使用できない日あり 定休日:毎週月曜日(その日が休日に当たるときはその翌日)年末年始:12/29〜1/
今、また再びスケートが熱い!テレビの前の美しい演技やスピード感を自分自身で体験してみては。
営業:入園自由 定休日:特になし
地下鉄中央線「朝潮橋駅」下車すぐのところに位置する公園。園内は広大な芝生公園で子供連れの家族の憩いの場として賑わっている。3月下旬〜4月上旬には桜、5月〜6月下旬にはツツジも楽しめる。
営業:見学自由 休業:なし
百田は作品を刊行する毎に作風が移り変わり、「何もない庭」を刊行した時は、日本的な心境詩に転じ、俳句的味わいをもった閑寂な短詩で表現する傾向があった。
靱公園内の「東園」の一角にある「梶井基次郎文学碑」。梶井基次郎は日本を代表する青春小説の名作「檸檬(れもん)」の作者で、明治34年(1901)大阪西区の靱(うつぼ)に、父・宗太郎、母・ひさの二男として誕生。北野中学、京都の第三高等学校を卒業後、大正13年(1924)、東京帝国大学英文科に合格。翌14年(1925)、中谷孝雄・外村繁・小林馨(かおる)ら6人で、同人雑誌『青空』を創刊、「檸檬(れもん)」を発表したが、当時は全く売れなかった。靱公園に建つ文学碑には、「びいどろと云ふ色硝子で鯛や花を打出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗(な)めて見るのが私にとって何ともいへない享楽だったのだ。あのびいどろの味程幽(かす)かな涼しい味があるものか」と「檸檬」の一節が刻まれ、彼の繊細な感性を表している。「檸檬」が初めて評論家や文芸愛好者たちから好評を得たのは、短編を集めた単行本として刊行された昭和6年(1931)のこと。翌7年(1932)には、中学校時代にかかった結核性胸膜炎に苦しみながら、看病する母親と交わした会話をつづった「のんきな患者」を『中央公論』に発表。同年3月に死去。作品はほかに「冬の蝿(はえ)」「交尾」「桜の木の下には」「蒼穹」など。墓は常国寺(中央区中寺二丁目)にある。
大正9年(1920)、江戸堀川に架けられた6番目の橋。橋名は、明治元年(1868)、明治天皇が大阪へ行幸の際に用水としてお使いになった近くの名水「此花乃井」に由来。花乃井橋は昭和30年(1955)、江戸堀川の埋め立てとともに姿を消した。現在は記念碑が橋名の由来となった井戸と並んで花乃井中学校の校内に建てられている。