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リーヴスギャラリー小坂奇石記念館

営業:10:00〜16:30 休業:月曜日(祝日の場合は開館、翌火曜に振替休)

東住吉区山坂に位置する法楽寺境内の一隅にあり、書道作家・故小坂奇石氏の作品を展示するギャラリー。小坂奇石氏は、日本書壇に一時代を築いた現代日本書道界を代表する書家の一人で、明治34年(1901)、徳島県由岐町に生まれ、16歳で黒木拝石氏に師事。上阪した27歳の時以来、平成3年(1991)に90年の人生を終えるまで、書一筋の人生を歩み、「奇石体」「奇石流」と呼ばれる独自の書風を確立して、書家としては初めて「日本芸術院恩賜賞」を受賞した人物。このギャラリーでは、小坂奇石氏の作品160点を所蔵・展示している。また、館内では、法楽寺800年余の歴史の中で伝えられてきた数々の仏教美術の展示のほか、現代に活躍する仏教関係の芸術家作品の発表もなされている。

川端康成文学碑

営業:4〜9月6:00〜17:00/10〜3月6:30〜17:00 定休日:年中無休

「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました。」という、川端康成の作品『反橋』の一節が本人の自署とともに記されている文学碑。碑が置かれているのは、航海守護の神で知られる、大阪最大の名社・住吉大社の反橋(そりばし)を渡って右脇。緊張の中にゆれる生と死を詩的に結晶させた作品で知られる、日本初のノーベル文学賞作家・川端康成(1899-1972)は、大阪天満宮の南向かいの料亭の一角にあった生家で3歳まで過ごした後、両親と相次いで死別。それからは現在の茨木市宿久庄町の祖父母の家で育てられるが、祖母、姉を続けて亡くし、16歳になるまで祖父と二人暮らしであった。死ぬ直前の祖父とのやり取りは、『16歳の日記』で克明に描かれている。以降は、上京して『伊豆の踊り子』や『雪国』などの名作を次々に発表、作家として大成するが、故郷の大阪を舞台にした作品は、昭和23年(1948)の『反橋』や翌24年(1949)の『住吉』くらいで、それほど多くない。住吉をはじめ、住吉大社、そして境内にある文学碑をめぐり、川端康成の文学に触れてみよう。

松虫塚

阪堺電軌鉄道上町線「松虫駅」下車徒歩3分、樹齢800年の榎(えのき)の大樹の傍らに建つ塚。その由来には、さまざまな説が。松虫とは「鈴虫」を指す言葉で、美しい音色で鳴き、短い命を落とした虫たちを旅人が哀れに思い、この塚を建てたという説。一方、古書『芦分船』によると、後鳥羽上皇(1183-1198)に仕えた松虫、鈴虫の二人の官女が法然の念仏に発心し、承元元年(1207)法然が土佐に流された後に、松虫がこの地に庵を結び隠棲したという説。さらに、「摂陽群談」と謡曲「松虫」には、「昔、ある人が親友と二人で阿倍野の松原を通ったが、その一人が節おもしろく鳴く松虫の音を慕って行ったまま帰らないので、捜しに行くと友は草むらで死んでいた」とあり、これを葬ったのが松虫塚であるとする説など、ほかにもいくつかの伝説が残っている。

伊藤静雄文学碑

営業:見学自由 休業:なし

「百千の」の詩は、昭和18年に刊行された第三詩集「春のいそぎ」におさめられている。簡潔で強く、また作風に円熟したものを感じさせる詩と評価されている。

安倍晴明産湯井の跡・生誕伝承地

大阪阿倍野の安倍晴明神社境内の一角に残されている、平安中期の陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明の誕生伝承地と、晴明がつかったとされる産湯の跡。安倍晴明は、阿倍臣(あべのおみ)の子孫で、延喜21年(921)に当地で誕生、天文・陰陽の術を学び、さまざまな事変を予見したと伝えられる。平安時代に最も活躍した陰陽師で、寛弘2年(1005)9月に85歳で没した。安倍晴明神社は、寛弘4年(1007)、第66代一条天皇による創建と伝えられ、寛政8年(1796)の『摂津名所図会』には、同社は昔からの名所で、晴明誕生地と記した石碑や、産湯をつかった井戸、母の葛の葉狐を祀る稲荷社などがあり、安産を願う人々が大勢参拝に訪れていたと描かれている。しかし、幕末には社家が没落し、同社もさびれていった。現在の社殿は、大正14年(1925)に再興。夢枕獏の小説がマンガや映画化され、ヒットとなった昨今では、安倍晴明に会いに阿倍野を訪ねる若い人の姿も多く見られる。阪堺電車の東天下茶屋駅から、もとの熊野街道を南へ約5分行ったところに鎮座している。

寺西家阿倍野長屋

営業:入居しているレストランに準ずる 休業:入居しているレストランに準ずる

戦前の昭和8年に建てられた、木造2階建て瓦葺入母屋造の四軒長屋建築。宮大工によって築70年を超える長屋は見事に改修され、現在はレストランやギャラリーとして、町の中に息づいている。

中浜せせらぎの里

営業:6:00〜18:00 定休日:無休

地下鉄中央線「緑橋駅」下車徒歩約10分、城東区の中浜下水処理場の一角にある「中浜せせらぎの里」。平成8年につくられ、せせらぎや水の音を楽しむ水琴窟(すいきんくつ)、芝生広場があるほか、明治時代のレンガ積みの下水管も展示している。また、周辺の約300本の桜並木は毎年春に見事な桜のトンネルをつくり、夜桜とともに多くの市民に楽しまれている。

芸術創造館

営業:10:00〜22:30 休業:7/30、年末年始(12/28〜1/4)

芸術表現を目的とした活動を支援するため、平成12年(2000)に開館した施設。演劇の稽古場が大小あわせて5室のほか、5室の音楽スタジオのなかには、本格的なレコーディングスタジオ仕様のものや、プロ並みのミキシングルームも併設し、劇団・ダンスカンパニー・バンド・アカペラグループなどあらゆるジャンルの表現者が低料金で利用できるようになっている。また、マンスリーシアターや、様々な人を対象にしたゼミナール、ワークショップなども随時開催。若い大阪のアーティストの発表・情報発信地として注目されている。大阪市営地下鉄谷町線千林大宮駅から徒歩10分。

御勝山古墳

生野区にある御勝山古墳は、もとは南北約112m/東西約55m/高さ約8mの前方後円墳で、古墳時代中期の5世紀前半につくられたと推定される。円形埴輪や土師器、須恵器なども出土し、市内では茶臼山古墳(天王寺区)、帝塚山古墳(住吉区)と並ぶ重要な史跡だ。中臣(藤原)氏の祖である大小橋命(おおおばせのみこと)の墓だといわれているが、定かではない。同地域は江戸時代初期までは「岡山」と呼ばれていたが、大坂の冬の陣で徳川秀忠の陣所となり、夏の陣で豊臣氏に勝利した際に戦勝の宴を開いたことから「御勝山」(おかちやま)と呼ばれるようになったとか。現在では古墳の前方部は道路(勝山通)と勝山南公園に整備され、後円部を残すのみとなっている。

緑橋

西の平野川と、いまの東大阪市との市界に位置する中高野街道を結んでいた用水路「千間川」(せんげんがわ)に架けられた橋。昭和42年(1967)の埋め立て工事が始まるまで、付近一帯には、長さ約1800mの「千間川」が流れており、東成から市内へと小舟で行き交う人で賑わっていた。千間川には、20あまりの橋が架かっていて、そのうちのひとつがこの緑橋。千間川は現在、緑陰道路に生まれ変わり、「緑橋」は南側交差点名に当時の名を留め、記念碑が建っている。

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