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柳の清水跡

定休日:なし

昭和初期まで豊かな清水が湧き出ており、芭蕉もこの清水を飲みのどを潤したのではないかといわれている。そばには芭蕉の詠んだ句である「水の奥氷室尋る柳哉」が句碑に刻まれている。この句碑は後世、芭蕉の足跡を慕ってこの地にやって来た俳人大島蓼太(りょうた)が土地の俳人交流を深めたことを記念して、江戸の宇平なる人が、天明元年(1781年)に建てたものである。

八向楯と芭蕉乗船の地

最上川に望む、八向山の上にある楯跡と俳人芭蕉が舟で最上川を下ったといわれる場所。新緑や紅葉など、四季折々の景色を楽しめる。

新庄城址

234年間、歴代戸沢氏の居城であった。現在は、当時の堀や石垣を残して最上公園となっている。

角沢街道の丸仏

宝暦5年,天明3年の大凶作による多数の餓死者を葬ったところ。新庄まつりゆかりの地。

鳥越の一里塚

羽州街道の一里塚があり,ブナの大木がそびえる。

新庄藩主戸沢家墓所

御廟所は、当地では御霊屋(おたまや)と呼ばれ、建立された順序は、瑞雲院1号棟(1704〜1721推定)・桂嶽寺御廟所(1724)・瑞雲院2号棟(1742)・3号棟(1747)・4号棟(1782)・5号棟(1788)・6号棟(1798推定)の順になる。造りは、単層宝形(ほうぎょう)造りで、大きさはそれぞれ違うが、いずれも絵欅(けやき)造りで、石場の上に土台を据え、丸柱を建て、柱間に厚い板をはめこんで壁としている。入ロは観音開きの扉、床は石畳で板敷きはない。屋根は全て茅葺きであるが、桂嶽寺御廟所だけは近年木羽葺きに替えられた。このさや堂の中には、歴代藩主とその正室(1基のみ側室)、家族の墓石が納まっている。その内訳を見ると、総数27基で、藩主11名・正室6名・側室1名・その他9名である。その他9名のうち、4名が9代正胤の子どもたちであるのが注目される。また、被葬者の内、新庄で亡くなった方は11名で、江戸で亡くなった方は、三田の常林寺(江戸での菩提寺)で本葬し、瑞雲院に分骨(遺髪か)して葬ったものである。全国に多数ある近世大名の墓の中で、藩主とその正室や子ども、側室など一緒に葬られているのは極めて稀である。また、各歴代藩主の墓が一堂にあることから、1700年代の初期から後期に亘る約100年の間の建築様式の変化は、その時代時代の新庄藩政の姿を浮き彫りにするもので、歴史的に大変興味深い。

新庄藩二代藩主の御廟所

戸沢二代藩主正誠の廟所,桂嶽寺。正誠は、実質的に63年もの長い間、藩主の座にあり、一流の文治政治を布いて新庄藩の全盛時代を築いた藩主であるが、晩年、嫡子正武の夭逝を悼んで、この地に桂嶽寺を建て、自らの墓所も同寺境内に定めた。

西山の丘

小磯国昭の墓碑・堤林数衛の胸像

株式会社ヨコタ東北アメニティセンター

開館時間:9:00〜15:00

市郊外、新庄中核工業団地に容器などのリサイクルの仕組みを見学できるアメニティセンターがあります。リサイクル展示室、ミニシアター、ギャラリー、モザイク壁画などもあり、小さなお子さまでも楽しみながら学んでいただける施設です。

新庄市エコロジーガーデン「原蚕の杜」

見学時間:日月火水木金土9:00〜17:00年末年始休館(12/29-1/3)

旧農林省蚕糸試験場新庄支場は、昭和9年に「蚕業試験場福島支場新庄出張所」として発足、同12年に「蚕糸試験場新庄支場」と改称されました。同43年に「蚕糸試験場新庄原蚕種試験場」と改称、蚕種の研究や桑の栽培等、戦中から戦後にかけて一貫して蚕糸業の発展に寄与してきました。その後組織改革がなされ、「東北農業試験場畑地利用部畑作物栽培生理研究所」を最後の名称として、平成12年3月、閉所となりました。その後、平成14年8月から「新庄市エコロジーガーデン」として蚕糸研究の歴史を紹介するとともに、自然環境を学び、交流の場を提供する施設として活用しています。平成25年3月29日に登録有形文化財として認められました。

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