別名「北の比叡山」。南北朝の争乱期に,南朝方の拠点としてその名をあげた城。延元元年(1336)新田義貞が恒良・尊良両親王を奉じて金ケ崎城に入ると,城主瓜生保ら一族はこれに呼応して挙兵。保は金ケ崎城救援に赴く途中に戦死するが,残った照・重兄弟らが立て篭って防戦。翌2年,金ケ崎城を脱した義貞が入城するに及んで,その後の北陸における南朝方最大の拠点となったが,同3年,力つきて落城した。現在,本丸・二ノ丸跡の土塁や殿池が残っている。◎新田義貞(1301-38)建武中興時の武者所長官。のち越前に下向して吉野方の頽勢
福井県南条郡南越前町阿久和
(1)北陸自動車道今庄ICから車で
時代:南北朝
備考:無料
-