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戊辰戦争の際、日光山麓の戦で戦死した24名の藩士の墓。
日光杉並木の由来が書かれた石碑。並木の起点4ヵ所、日光神橋畔と日光神領の境界である今市の山口、小倉、大桑町にある。
日光街道と例幣使街道の分岐点にある。高さ約3mの坐像で、赤いよだれかけをした石地蔵。初め、弘法大師が日光の憾満ガ淵に立てたが、洪水で流され大谷川の砂原に埋もれたものを、石工が大石とまちがえクサビを打ちこんだところ、血がにじんだという伝説がある。今も地蔵の背面にはその跡と称するくぼみがある。
毎年3月最終日曜日は観世音大祭。別名「鶴の子観音」と呼ばれ、子宝・安産にご利益があるとされています。
報徳役所関係では唯一現存する建物です。当初は、報徳役所の一部として仕法の記録などを入れていました。最初に建築したときは土蔵造りでしたが、1859年(安政6年)、弥太郎の時代になって、報徳関係書類の収納庫として石造りの防火施設に再建されました(間口2間半、奥行き2間の二階建て、延べ10坪。木造石屋根、外壁石張りの防火建築。)。
江戸末期の篤農家二宮尊徳は嘉永6年(1853)、幕府の命で日光神領の開拓に着手したが、病に伏し、3年後の安政3年(1856)今市報徳役所で亡くなった。明治31年に建てられた報徳二宮神社境内の裏手に墓がある。
昭和30年に、名誉市民である加藤武夫邸を報徳役所跡地に移転して開館した。
日光杉並木の保護と地域文化を伝承するために作られた公園です。園内には直径10mにも及ぶ大水車や線香の粉挽きに使われていた水車など、14基の水車が設置されています。
野球場・テニス場・プール・サッカー場・ゲートボール場・研修室兼宿泊室
勝道上人が日光二荒山神社開山のとき神体を移した。