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太閤平

別名本陣山。鳥取城餓え殺しの際、本営を築いた場所。秀吉鳥取城攻略の本陣跡で千成瓢箪土塁跡が残る。

防巳尾城跡

戦国の世,吉岡将監という戦さ上手の地侍がおり天正9年(1581)の鳥取篭城戦の際、しばしば秀吉軍の背後を衝いて苦しめた。秀吉軍は何度か攻めたが撃退され、7月の大攻勢では逆に千成びょうたんの馬印を奪われるという屈辱を味わわされた。秀吉はここで鳥取城同様、城を遠巻きにして兵糧攻めに持ちこみようやく城兵を四散させた。現在は公園となっている。

鳥取城跡

因幡守護山名誠通が天文14年(1545)に築いたと伝わるが否定の説がある。天正8年(1580)山名豊国(禅高)が羽柴秀吉に降るが家臣は従わず,豊国のみ城を出る。翌9年毛利家の部将吉川経家が入城するが,秀吉に攻められ落城,宮部継潤が入る。慶長5年(1600)池田長吉が入城,近世城郭の基礎を築き,元和3年(1617)池田光政が入城して城と城下町を整備する。寛永9年(1632)池田光仲が入城,子孫相ついで明治にいたる。現在は,天守閣と渡櫓門の跡,古井戸,二ノ丸跡に城門と石垣が残る。◎吉川経家(1547-81)室町後期の武将。吉川元春に従って尼子氏討伐に功あり。鳥取城の守将となるが,豊臣秀吉の攻撃を受け,篭城4カ月に及ぶも援軍なく開城,自害して果てる。◎池田光仲(1630-93)鳥取藩初代の藩主。治政に努め,鳥取市街の完成,治水の整備等をなす。『太平記』を好み,名和公の顕彰を心がける。◎鵜殿長春(1659-1730)鳥取に生る。江戸前期の鳥取藩家老。職に在ること30年,藩政に大いに貢献す。学問を好み,林鳳岡,伊藤仁斎に学ぶ。◎池田久姫(1726-1800)紀伊徳川家の生れ。第四代藩主宗泰公夫人。夫亡き後,三代にわたって幼君をよく教養補佐し,尼将軍に比せられる。桂香院と称す。◎乾長孝(1741-98)江戸中期の鳥取藩家老。在職36年,事務練達,藩政大いに挙がる。学を好むこと厚く,儒仏百家に通じ,『大道微言』『長孝志』など,著述甚だ多し。◎池田慶徳(1837-77)第一二代鳥取藩主。水戸斉昭の五男として生れ,14歳の時池田家に入る。幕末多事の時にあって,人材を登用して藩政の改革を行い,治績大いに挙がる。

鳥取東照宮本殿、拝殿、幣殿

昭和27年に国の重要文化財に指定された本殿・幣殿・唐門をはじめとする歴史的建造物は、鳥取藩政期における大名池田家の数少ない遺産。正面3間、側面2間の入母屋造桧皮葦など簡素で気品がある。(H23.10に樗谿神社から名称変更)。

福田家住宅

藩政期における民家住宅としての機能を良く残しており因幡地方の民家の伝統を伝える農家建築。国の重要文化財。

箕浦家武家門

池田家家臣箕浦家の表門。入母屋造りの建築様式。

聖神社本殿・拝殿

本殿は宝永7年(1710年)、拝殿は文化12年(1815年)の造営で市内屈指の大社である。全体にきめ細かい装飾が施され、安定感に富む社殿の造りと美しく調和して独特の建築美を作り上げている。

ハマナス自生南限地帯

白兎海岸近くの国道9号線沿い,565平方mほどの地域に自生している。

鳥取城跡の桜

かつて池田藩32万石の城下町として栄えた鳥取。城のあった久松山の山腹にある二の丸跡のあたりでは春には147本のサクラが咲き,夜もボンボリが灯されて美しい。山頂からの見晴らしもよい。

袋川堤防の桜

文部省唱歌「ふるさと」に歌われた袋川沿い約2kmにわたって,みごとな桜のトンネルをつくる。

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