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旧円融寺庭園

承応元年(1652年)に創建された円融寺の庭園。江戸時代初期様式の石組庭園は、東西50mに及ぶ斜面を利用して400個以上の石を組み合わせて造られ、今も当時そのままの雄大な姿を残す名園です。また、白い玉石で水の流れを表現し、地形に合わせて作りだされた枯滝、枯流は山水画的な造形を見せています。

本経寺

本経寺は1605(慶長10)年大村藩初代藩主大村喜(よし)前(あき)によって創建された大村家の菩提寺で、日蓮宗の寺院です。キリシタン時代に失われていた寺院の復興第1号として建立され、大村藩の禁教と仏教復興の重要な施設でした。現在でも本堂をはじめ江戸後期の建物が多く残ります。大村家墓所には、初代藩主喜(よし)前(あき)から11代藩主純(すみ)顕(あき)まで歴代藩主とその一族の墓があります。6mを超す巨大な墓が建ち並び、様々な様式の墓は見事な石造美術品です。キリシタン大名であった大村家が、禁教下で、キリスト教を棄て仏教信仰を幕府や領民に証明するために巨大な墓を建てたと考えられます。

妻子別れの石

明暦3年(1657年)潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関係ある所です。翌年の万治元年(1658年)に、大村牢から200人の武士に厳しく警護されて、処刑のため131人が斬罪所に連れて行かれました。見送ってきた家族や親戚の人たちと、最後の別れを惜しみ、水盃を交わした所と伝えられる場所です。とめどもなく流れる悲しみの涙で濡れた石として、またの名を「涙石」とも呼ばれ、今でも苔が生えないといわれています。戦前までは7個ありましたが、現在は3個が残っております。

放虎原殉教地

郡崩れの時、捕えられ、打ち首と決まった406人の内の131人が放虎原の斬罪所で、捕えられた翌年の万治元年(1658)7月27日に処刑された所です。銅版のレリーフをはめ込んだ大きな殉教顕彰碑が建てられています。

針尾家家老屋敷跡

上小路の坂を西に下った道のつき当たりが、江戸時代の大村藩家老針尾氏の屋敷跡です。玖島城築城の時、本小路に移り住み、慶長19年(1614年)より257年間、この地は針尾氏の屋敷でした。現在、屋敷の東側に残っている家屋は、家紋入りの鬼瓦を使った入母屋瓦葺きの立派な長屋で、若党や中間など家臣の住まいとして使われていたものです。慶応3年正月3日夜、当時家老であった針尾九左衛門が門外で刺客に不意討ちされて重傷を負いました。後に九左衛門は、姓を児玉と改め明治維新の勲功により従四位に叙せられました。

浅田家家老屋敷跡

建物は明治の末、白蟻の害のため建て替えられましたが、石垣・塀・庭園の広大な屋敷は、今もなお当時の面影が残っており、壮大さがしのばれます。また倉庫には、浅田家の家紋がある古い鬼瓦や庭園の築山の陰にはマリア観音の祠が残っています。

稲田家家老屋敷跡

慶長4年(1599年)玖島城築城の時、設けられた武家屋敷で、本小路の石橋を起点として長崎街道に至る長さ約716mの道路が東西に通り、21戸の比較的広い屋敷が多く、禄高の平均は百石にも満たなかったといわれます。しかし、渡辺清・昇兄弟、稲田又左衛門、楠本正隆らを輩出しました。その中の、ここ、稲田家家老屋敷跡は、寛延3年(1750)元締役の稲田利佐衛門が住んでいた屋敷です。庭園は10代藩主純昌の設計によるものです。現在は、高い石垣や堂々とした門の跡が残っています。

旧中尾元締役旧宅

小姓小路の南を通る小道、日向平武家屋敷跡は13戸の侍屋敷がありました。道の両側には畑や田地が並行し、三日干川(日向平川)が流れ、丘を越えると鈴田や三浦の山が望まれます。その道中にある中尾元締役旧宅は、文政9年(1826)より中尾半兵衛の住まいとなりました。主な建物は殿様用の玄関・通用の玄関・勝手口・大広間・次の間などがあり、天窓も造られていました。その他、井戸や離れには土蔵もあり、東側には農耕用の納屋、馬小屋などがありました。

久原城跡

武家屋敷の続く中の,石垣で囲まれた一角が久原城跡。994(正暦5)年,大村氏初代の祖藤原直澄が伊予大洲から大村に入部,この館に入ったと伝えられる。

玖島城跡

慶長4年(1599)に大村喜前(嘉前)が大村湾に突き出た玖島に築城。工事は長崎惣兵衛が監督した。喜前の父は日本最初のキリシタン大名の純忠。築城から明治維新まで十二代270年間,大村氏の居城であった。石垣と堀が残る。現在は公園として整備されている。本丸跡には大村家歴代藩主を祭る大村神社がある。

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