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永泉寺の枝垂れ桜

満開になると、長く垂れた枝に赤味がかったピンク色の花が無数につき地面につくほど枝が垂れさがるさまは、まるで滝を思わせる見事な景観です。樹高17メートル、根回り6メートル、推定樹齢300年。

勢至堂渓谷

旧会津街道沿いの流れで小さな滝が点在する。

藤沼湖

山間水を堰止めた潅漑用人造湖である。※東日本大震災により被災。現在復旧に向け作業を進めています(H24.12.13現在)

道の駅「ふくしま東和」あぶくま館

営業:9:00〜18:00直売所

福島県内11番目の道の駅として登録された。二本松市(旧東和町)の新鮮な農産物等の直売所。朝採り野菜や桑製品(桑パウダー等)、羽山リンゴ、いちじく、いちじく菓子、手づくりアイスクリーム(くわ、くわの実、かぼちゃ等)や自家製ジェラートがオススメ。

最勝寺

室町中期の応永30年(1423年)頃、菊地頼来によって建てられたと伝えられ、樹齢570年になるコウヤマキ(高野槙)がある。この寺に保管されている椿彫木彩漆笈は、昭和52年福島県の有形文化財に指定されたもので、材質はヒノキ材三段作り三脚箱笈、室町時代の作品と言われている。また、安達三十三観音めぐりの三番札所となっている。

隠津島神社

隠津島神社の発祥は古く、大同年間(806年)に平城天皇の勅願により弁天堂が建立され、神仏混淆の杜となり、以来、「木幡の弁天様」として歴世の国主、藩主、武将、さらには庶民にいたるまで厚い信仰を集め親しまれてきたが、天正13年(1585年)伊達政宗の兵火により、三重塔のみを残し、本社・末社のことごとくが炎上し焼土と化した。現在の本殿・拝殿は二本松藩主丹羽長貴公の命により寛政元年(1789年)造営始めとなり、拝殿は寛政6年(1794年)5月竣工、本殿は12年(1800年)、実に12年もの歳月を要し4月竣功となり遷宮を行った。明治期の神仏分離令による混乱はあったものの「弁天さま」の厚い信仰は今なお続いている。弁天様は、梵天王の妃弁舌知恵の神、また招福・音楽の神として妙音天の名があり、宝冠青衣で琵琶を弾じ容色勝れているとされていることから縁結びの神として信仰されている。

住吉城跡

四本松城跡又の名を住吉城と呼称するこの社は、天喜3年(1055年)、源義家の武将伴次郎助兼がこの地を治めたときこの住吉山に城を築き、自分の前任地であった摂津住吉浦より岸の姫松4本を運び屋形の内に植え、同時に住吉4座の神を祭司し、これにより東安達を四本松の庄と称し社号を四本の松住吉神社、城名を四本松城又の名を住吉城と呼称しました。代々伴氏が東安達を領主としましたが、文治5年(1189年)の文治の役に当主武知が戦死してこの城が滅亡しました。田原次郎秀行がその後入国してこの地を治めましたが、2代成清のとき城を川向古舘に移して城の名前も『四本松城』と名称を変更しました。その後石橋氏5代義衡が文明3年(1470年)古舘からこの地に移し、8代義久のとき、また舘を古舘に移したため社のみとなりました。

小手森城跡

小手森城址は小野主水、荒井半内、石川勘解由、小形源五兵衛それに定綱の甥菊地顕綱らが守る堅城でした。天正13年二本松、会津攻めを図っていた伊達政宗は、まず、大内氏の領する東安達の拠点、小手森城への総攻撃を開始しました。8月23日のことでした。城は、大内備前守定綱の臣、菊地顕綱らが守っていましたが力尽き、8月27日ついに落城しました。政宗は、兵と共に城にこもった農民の老若男女を合わせ、800余名のすべてを斬り殺しました。織田信長の比叡山焼き討ちにも比すべきものであったと言われています。この戦いの後、功により小手森城を与えられた石川弾正は、天正16年、伊達勢に抵抗し小手森城に兵を上げました。政宗は同年5月12日優勢な兵をもって、背臣への総攻撃をかけたのでした。戦火まだ治まらぬ、わずか3年後の出来事です。小手森城は再び500余名が討死するという悲劇に見まわれたのでした。豊臣秀吉による全国統一(1590年)の2年前のことです。このように、この城は、伊達正宗により2度の攻撃を受け、千数百名が討死にしたと今に伝えられています。現在は石塁のみが寂しく400年前を物語っています

木幡山経塚群と蔵王堂跡

公開:随時 休業:無休

昭和54年県の史跡に指定された経塚は、末法思想が盛んだった平安末期にお経を埋めたところで、木幡山の尾根に一線上に経塚6基が並んであり円形・長方形とさまざまで、径が2〜4m、高さ1m前後で中央に石室があります。経文を埋納した容器や搬出物の完全なものは、盗掘にあい失われていますが、木幡山より出土したといわれる経筒が奈良の国立博物館に保存されています。この経塚からは、和鏡片2、刀子2、古銭(宋銭)、須恵器、土師器片などが多数出土しています。経塚群の西端にある立石の基部付近からも土師器、古銭が出土しており藤原時代12世紀の経塚と見られ県内でも、重要なものです。

竹中の長屋門

旧内木幡村名主紺野邸の長屋門で通称「竹中の長屋門」といわれ、東西の石垣の白壁の長屋中心部分は総欅(ケヤキ)造りです。門は瓦葺き(旧態は萱葺)平屋建てで、中央に総ケヤキ材の角柱4本をもって取り付けています。扉はケヤキ材で要所に鉄板を鋲留としていましたが近時取り外されました。門左右に2個の木製吐水が非常用につり下げられているのも貴重です。右側にくぐり戸があり、門上は物置です。門の右袖(北側)は下人(門番)小屋で、今は農機具等が収容され、左袖(南側)は馬小屋で4間に間仕切りがあり現在物置になっていますが、常時3頭の騎馬を飼育していました。長屋門の建物を示す記録はありませんが、江戸中期頃のものと思われます。(注意)見学には許可が必要です。

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