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一ノ瀬にある長願寺跡の境内には、豊田氏累代の墓地があり、種長の板碑があります。地上9尺、幅4尺5寸、厚さ8寸で、梵字と種長御霊観応3年(1352)壬辰十月十八日と刻まれています。
郷土出身の女流作家林芙美子を顕彰するため、地元出身の実業家河村幸次郎の篤志によって昭和41年に建てられたものです。林芙美子は、明治37年(1904)12月31日に下関市田中町の五穀神社横にあったブリキ屋の2階で誕生したとされています。出生地については尾道・門司・鹿児島など諸説がありますが、彼女の自伝的作品である『放浪記』には「私が生まれたのはその下関の町である」と書かれています。碑の中央には林芙美子自筆の「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」の一文が刻まれています。
高杉晋作は松下村塾門下の逸材。墓は吉田町南方の小丘清水山にあり、墓碑表面には「東行墓」と刻まれています。この地を選んだのは彼の遺言だといわれています。
高杉晋作は、萩に生まれ、松下村塾に学び、幕末の最強軍団『奇兵隊』を創設しました。長府功山寺の挙兵を機に長州藩を討幕運動の主役へと導きますが、維新実現を目前に、1867年に没しました。桜の名所として知られ、関門海峡を見晴らす公園内に、昭和31年に没後90年を記念して陶像が建立されました。
軍人として広くその名を知られ、明治天皇大葬の日に殉死した乃木希典(まれすけ)を文武両道の神として祀るため1920年(大正9年)に創建された乃木神社の境内にあります。乃木家が16年間過ごした旧宅を1914年(大正3年)に復元したもので、またゆかりの遺品を展示する宝物館もあります。
中山忠光は、もともと孝明天皇につかえていた公家でした。幕末には、尊王攘夷派として活動し、武力によって幕府を倒そうとする天誅組の首領になりましたが、その戦いに敗れて長州へ逃げ、1864年(元治1)に暗殺されました。墓は、忠光を祀ってある中山神社境内にあります。慶応元年(1865)に建てられ、高さは1.7m、花崗岩でできています。
乃木希典は日清・日露戦争で活躍した軍人で、ロシア将軍ステッセルとの会見は有名。大正元年9月13日、明治天皇崩御に際し妻とともに殉死し、社会に大きな衝撃を与えました。長府藩3代藩主毛利綱元が(もうりつなもと)が建立し、毛利家の菩提寺の一つである覚苑寺の境内にあります。
長府功山寺の仏殿裏手に、初代長府藩主である毛利秀元を始め、9人の藩主達の墓があります。毛利秀元は元就の孫で、秀吉の朝鮮出兵において武将として高く評価され、関が原の戦い後、毛利氏の削封に際して長府藩を創設、城下町としての基礎を築きました。ここには、秀元ほか、5代元矩、9代匡満、10代匡芳、11代元義、12代元運、14代元敏、15代元雄、16代元匡と、その正室や側室などが葬られています。
長府金屋町の商店街のはずれに徳応寺があり、この入口左側に、女流俳人田上菊舎の墓と句碑があります。菊舎は加賀の千代女と並び称される女流俳人です。句碑は、文政5年(1819)故郷長府に落ち着いた時に建てられたもので、旅中に受け取った父母からの手紙を碑の下に納めたので「文塚」と呼ばれています。前面に「雲となる花の父母なり春の雨」の句を刻み裏には唐人(費晴湖)の詩文を記しています。