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宗祗戻しの碑

文明13年(1481)、結城政朝が鹿嶋神社で連歌奉納を催したところ、連歌師宗祗も白河を訪れた。その折、綿を背負った婦人に出会い和歌を問いかけたところ、婦人は見事な和歌で返答したという。宗祗は白河人の風流ぶりに感心し、そのまま引き返したところからこの名がついたという。

聯芳寺

結城宗広の伯父、広綱が娘の菩提を弔うために建立した寺であると伝えられます。もとは太田川(泉崎村)にあったと言われていますが、いつの頃か現在の場所に移ってきたようです。

専念寺

出羽国最上出身の僧、徳庵和尚が慶長年間(1596〜1615)に法華経一万部供養を行った時に開山したと伝えます。徳庵は修行で白河関山に籠もっていましたが、町の有力者が城下に招きました。この供養を記念した碑が慶長六年(1601)に建てられましたが、碑は現在も残っています。現在地は時の白河城代関長門守から与えられたと伝えられます。

長寿院

もとは石川郡小高村(現在の玉川村)にあり、当時衰えていた同寺を、白河藩主松平大和守家の菩提寺孝顕寺(1692年、松平氏の転封で白河に来る)の住職が今の場所に再興したと伝えています。孝顕寺は松平氏の転封で姫路に移りましたが、長寿院には孝顕寺の僧一人を留め、白河に葬られた藩主の霊廟を守るための寺としました。

大統寺

弘仁年間(810〜24)の開山と伝えられ、当初は下野国黒羽の大統寺住職の隠居の寺で金勝寺の近くにあったと伝えられます。白河結城氏3代顕朝が父親朝の菩提を弔うために改めて中興し、現在地には寛永年間(1624〜1644)に移ったとされています。

永蔵寺

鎌倉時代末期、幕府調伏の罪で白河の結城宗広に預けられた僧円観が宗広の尊崇を受け、弟子の永意を留めて寺を建立したという説、また楠正成が後醍醐天皇から賜った千手観音が円観を媒介として結城宗広に渡ったので、観音を安置する寺院を建立し、円観を開山としたという説があります。創建はどちらも建武三年(1336)と伝えています。白河結城氏の領内で格式の高い寺院でした。

常瑞寺

源義経に従った佐藤継信・忠信兄弟の討死を北平山(泉崎村)で知った母が尼となり、草庵を建てたのが起源と伝えられます。その後文永6年(1269)、親鸞の孫の如信が、ここに念仏道場「大網奥之坊」を開基し、北関東および南奥州における初期浄土真宗の拠点としました。寛永4年(1627)、この地に如信の廟所を残し、初代白河藩主丹羽長重の命で白河城下の現在の場所に移りました。

龍興寺

前身は白河藩主本多忠義が明暦三年(1657)に建立した弁財天を安置する堂宇で、これを本多氏と関わりのあった黄檗宗の僧が管理したことで黄檗宗になったと伝えられます。その後の白河藩主松平大和守家(入封:1692〜1742)の帰依も受け、松平定信の養祖父松平定賢(藩主在職:1742〜1770)から「龍興寺」の寺号を与えられて現在に至っています。

圓養寺

開創の時期は明らかではありませんが、享保14年(1729)に火災で「巨麗」な本堂が焼失したと伝わっていますので、それ以前からあったようです。江戸時代は「連峯山福寿院」と称していましたが、明治3年(1870)、千葉の成田山新勝寺から不動尊を勧請したため、「成田山圓養寺」と改称しています。

妙徳寺

常陸の豪族が同国内に建てた妙徳寺が前身と伝えられています。慶長年中白河城代の町野長門守がこの寺を八幡小路に招いたあと、歴代藩主の命や火災によって二番町と金屋町の地を度々移転しています。現在の地に落ち着いたのは18世紀半ば以降です。

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