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石井の井戸

石井の井戸

茨城県坂東市岩井1627

石井営所跡を離れて延命寺に向かう途中、右手の田んぼの中に突き出た緑園が<石井の井戸>跡です。この井戸は、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人がこの地に来て、湧水近くに居を構えて以来、人々が移り住んだと思われます。奈良時代には、石井郷という行政区域になっていました。平安時代に書かれた『将門記』には、将門の本拠となる石井営所として記述されています。その主人公の将門と石井の井戸との関わりについては、「国王神社縁起演書」に詳しく記されています。『将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。久方の光の末の景うつる岩井を守る翁なりけりと唱じると姿を消してしまった。将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。』とあります。また別説としては、<星見の井>や<将門産湯の井>などの諸説があります。いつの世も、人々の定住に欠かせない水の大切さを物語っているといえます。

九重の桜

九重の桜

茨城県坂東市岩井2454-2

石井の井戸跡から南へ向かって進むと、台地が東に突き出した田んぼに面して小さな森が見えます。この森が九重の桜史跡です。史跡には、碑とその伝承由来を誌した副碑が建っています。碑文によると、九重の桜は、京都御所の紫宸殿前にある桜を根分けして移植したものと伝えられています。九重というのは皇居、または王宮を表す言葉といい、中国の王城の門を幾重にも造ったことから生まれたと記されています。紫宸殿とは、内裏の正殿にあたり「南殿」または「前殿」とも称しました。もとは日常の政務を行うところであったが、後に正殿をめぐる華やかな儀式や行事の中心的な場となります。東宮(朱雀天皇)の元服の儀が紫宸殿で執り行われ、その恩赦によって将門の帰国が許されました。南庭の左近の桜を株分けして、将門ゆかりの地に移植されたという伝承には、恩赦への感謝の情がくみとれます。いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな歌人伊勢大輔の歌は、源氏物語の「花宴」を連想させます。八重桜とは八重咲きの里桜のことで、別名は牡丹桜といいます。桜の中では開花が最も遅く、それゆえに愛惜の心が揺らぐことから、願いを託した桜として<九重>の造語が生まれたものと考えられます。

國王神社

國王神社

茨城県坂東市岩井948

将門遺跡の代表であり、本殿、拝殿、座像は県指定文化財。岩井市街から結城街道を沓掛に向かう左側に、杉木立におおわれて国王神社があります。古風な木造両部鳥居をくぐり、参道を進むとその奥まったところに茅葺き屋根の社殿が現われます。常緑樹に囲まれた入母屋造りの拝殿、幣殿、本殿からなる社殿は、質朴な中に神さびた雰囲気が感じられます。祭神は平将門命です。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、将門最後の合戦の時、三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称しました。将門の死後33年目に郷里に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門の像を刻み、小祠を建てて安置し、将門大明神と号して祀られました。御神体の像は、寄木造座像で高さ2尺8寸の衣冠束帯姿で、右手に笏を持っています。像の表情を見ると、目は吊り上り、口は八の字に結び、怒りの形相を表わし、武人の気迫が全身にみなぎっている印象を受けます。彫刻で注目されるのは、本殿向拝に用いる蟇股のつなぎ馬です。江戸期の将門芝居につなぎ馬の紋所が描かれるのは、この彫刻に由来するようです。将門軍の最大の武器は馬と鉄といわれ、騎馬合戦を最も得意としていました。しかし、乱は終わり、平和な時世には騎馬は不用と馬をつなぎ置き、再び合戦に用いない証明として彫られたものと伝えています。なお、社殿と将門座像は、県の重要文化財に指定されています。【國王神社ホームページ】http://www.kokuou.or.jp/

岩井営所跡(島広山)

岩井営所跡(島広山)

茨城県坂東市岩井1603-2

岩井市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡があります。明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。

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