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小島草庵跡

新鸞上人が布教のために庵をむすんだところ。親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214)妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、ここ小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東おいて真価を発揮した最初の土地である。親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊間を勤めている。草庵跡には「親鸞聖人御旧跡」、「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。

多賀谷城本丸跡

市内本城町に戦国時代にあった城。もと結城氏の重臣であった多賀谷氏によって、15世紀の半ば(寛正年間)に築城されたといわれた。その後、多賀谷氏は矢田部、水海道以南にまで領地を拡大したが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに参陣しなかったため、城地没収のうえ追放された。明治22年(1889)本丸跡の台地に多賀谷氏遺跡碑が建てられるまで下妻城と呼ばれた。現在、多賀谷城跡公園となっている。

駒城跡

南北朝時代にあった城跡。東西約120メートル、南北約180メートルで城跡の北西部に「駒城址」の碑がある。駒館、駒楯城ともいわれた。駒城は小田城(つくば市)、関城(筑西市)、大宝城とともに常陸国における南朝方の戦略的拠点として重要な存在であった。在地の武将の名は確定できないが、中御門少将実寛を擁して奮戦し、興国1・暦応3年(1340)5月27日、北朝方の将高師冬の猛攻により実寛は生け捕りにされ、やがて落城したといわれる。

大宝城跡

平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三方断崖に面した要害の地であった。東西288メートル・南北576メートルで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦手とした。興国2・暦応4年(1341)11月、春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となった。その後、北朝方の猛攻をうけて苦戦を続け、食料不足と場内不和のため、興国4・康永2年(1343)11月12日落城。城主下妻政泰は討死したといわれる。城跡は大宝八幡宮の境内として今にその面影を留めている。八幡宮裏に昭和6年(1931)5月建立の「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑と、昭和18年(1943)11月の「下妻政泰公碑」が建っている。

下妻市ふるさと博物館

営業時間:9:00〜16:30 休館日:月12月28日〜1月4日(祝日の場合は翌日)国民の祝日の翌日(土・日曜日は除く)

下妻市ふるさと博物館は、市の西部、鬼怒川と風光明媚な砂沼に挟まれた雑木林の中にあり、戦国時代、当地を治めていた多賀谷氏の居城(館)をイメージして設計されています。館内は、常設展示室、企画展示室、講座室、体験学習室等から成り、常設展示室では、「歴史」「水とのたたかい」「農家のくらし」「くらしの道具」「ゆかりの人々」等のコーナーに分け、実物資料、パネル、映像等でわかりやすく展示しています

今泉不動堂

今泉不動堂は、下妻城主多賀谷氏が、城の西南の鎮護のため建立したと伝えられる。その多賀谷氏も、やがて豊臣秀吉の天下統一の前に屈服し、さらに慶長6年(1601)徳川家康により所領没収、追放された。その後、元和2年(1616)下妻城主に封じられた松平定綱により不動堂の再建がなされている。しかし、現在の堂宇は、建築の細部手法が江戸時代中期の特徴を表していることから江戸時代享保頃改築されたと思われる。建築形式は、桁行・梁間ともに三間(実寸法7.6m)の本体に、正面一間の後拝を設け、本体周囲に回縁をまわす。本体の前面一間を外陣、奥の二間を内陣とし、結界には格子戸を入れる。ただし、屋根と天井は近年改修された。特に目を引くものに頭貫虹梁上の竜、竜を浮彫にした向拝柱、その柱頭の唐獅子と獏の彫物などがあり見事である。これを彫ったのは、堂内の須弥壇、匂欄の刻銘から、江戸時代中期を代表する高名な彫物師で国指定建造物成田山新勝寺三重塔などを手がけた無関堂円鉄の弟子と思われる嶋村藤市という職人とみられる。

大宝八幡宮本殿

旧県社。祭神は誉田別命(応神天皇)・足仲彦命(仲哀天皇)・気長足姫命(神功皇后)の三柱。社伝によると、大宝元年(701)、藤原時忠が筑紫の宇佐八幡宮を勧請創建したといわれるが、天台宗の古い写経の奥書に「治承3年(1179)己亥7月22日未時書了於常陸州下津間郡八幡宮書了兼智」とあるから、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかる。本殿は、天正5年(1577)に下妻城主多賀谷下総守尊経が建立したことが、本殿回廊の高欄擬宝珠によって知られる。三間社流造。建ち上がりも高く、柱も太くて、どっしりした重みを見せているが、これに比べて組物は小柄で複雑に組合わされ、桃山時代の地方的建築のありさまを示す貴重な遺構であり、また、派手な装飾は見られず落ち着いたたたずまいを見せている。

明空御手植の柊

樹高5.87メートル幹周2.90メートル推定樹齢700年以上光明寺開基明空房は寺伝によれば俗名三浦荒次郎義忠といい、親鸞の弟子となり、仏道に励んだ。明空はヒイラギを好み、境内に多く植えたので、光明寺は「柊道場」とも呼ばれた。この老樹は当時のものといわれている。傍らに次の歌碑がある。われもまた心に造る罪科を名にあらわして植うる一本明空

親鸞御手植の菩提樹

この樹は建保年間(1213〜18)浄土真宗の開祖親鸞聖人が小島の草庵に3年間滞在し、伝道に努めていたが、稲田に去る際記念に植樹したものと伝えられ、聖人御遺跡巡拝者の間では有名な老樹である。歌人長塚節もしばしば当地を訪れており、菩提樹を詠んだ一首が歌碑にある。うつそみの人のためにと菩提樹をここに植ゑけむ人の尊とさ

四体仏と稲田恋しの銀杏

親鸞聖人の草庵跡には、「親鸞聖人御旧跡」「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇、用命天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。

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