全日本の観光地へ
雨宝院の前を通り、西に折れて150m、「室生犀星生誕地跡」と記した標柱が立っている。犀星はこの地で1889年(明治22年)旧加賀藩足軽頭とその女中との間に生まれたが、生後1週間で養子に出され、さらに8歳のとき雨宝院住職の養嗣子になった。現在、この地には室生犀星記念館が建つ。
宝暦5(1775)年建立。「あかあかと日はつれなくも秋の風」が刻まれている。
藩政時代の北陸路の起点を示すもの。橋場町交差点近く(尾張町と橋場町の境界付近)の通り端に「石川里程元標野々市へ一里三十一町二十四間・南森下へ一里二十五町三十間」と記された石柱があり、ここと各地点とを結んで距離を表していたことがわかる。
日露戦争のとき、市内の日蓮宗の信者が毎日戦勝祈願をしたことから、大正7年(1918年)、十数人の人々が発起人となり建立。
藩祖利家が兄利久を葬って以来、歴代の藩主・正室および一族の墓地となった。古墳式の簡素な墓。
馬場小学校の卒業生である、泉鏡花、徳田秋声、尾山篤二郎の碑。碑文は川端康成の選文、筆による。
「白やまに天の雪あり医王山次ぎて戸室もたけなわの秋」。
金沢生れ。旧加賀藩士の子。本名照道。詩人小説家。『抒情小曲集』『あにいもうと』『杏っ子』『かげろふの日記遺文』など。没後全集が刊行された。
真宗大谷寺の開創以来700年になんなんとする名刹、専光寺の境内に葬られている。「朝顔につるべとられてもらい水」の句は,あまりにも有名。拝観自由。
金沢の三文豪として全国に知られる泉鏡花の生家は、現在の泉鏡花記念館の場所にあった。彫金・象嵌細工師の父、宝生流能楽師の叔父を持つ鏡花は、幼いころから金沢の美術工芸・芸能に影響を受け、幻想文学を生み出していった。泉鏡花記念館の一角に生誕碑がある。