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飯豊連峰

信仰の山。高山植物が多く山頂にお花畑がある。頂上から四方が一望できる。2kmに渡る雪渓を歩く石日転ビ沢ルートは危険が多いためベテラン登山者でも注意が必要だが、夏でも涼しい人気のルート。本山の飯豊山へは、飯豊山荘から梶川尾根を経由して約12時間。

白い森おぐに

開設:情報ターミナル24時間 休業:情報ターミナル無休

道の駅。

川西温泉(川西町浴浴センターまどか)

営業:7:00〜21:009:00〜11:00清掃時間 休業:毎月毎月第4月曜日

川西ダリヤ園を一望しながら湯に浸り解放された気分と心地良さが十分満喫できる。

川西ダリヤ園

公開:8月〜11月9:00〜18:00 休業:開園期間中(8月1日〜11月3日)無休

2.1ヘクタールの園内に650種10万本のダリアが咲き競い、鮮やかな紅色の「宇宙」や「球宴」、愛らしいピンクの「プリンセスマサコ」「ムーンワルツ」等、国内外で品種改良された美しいダリアが人々の目を楽しませてくれる。また、園内では米沢牛のすね肉と玉こんにゃくを煮込んだ川西ダリヤ園名物「牛こん」が大人気。8月から11月初旬までの開園期間中には園内を会場に様々なイベントが開催される。

原田家代々の供養塔

原田氏代々の先祖を弔う九重の供養塔が東陽寺墓地の一画に風雪にたえ現存している。(伊達騒動原田甲斐の先祖)

真済僧正入定の地(石碑)

大光院の開祖真済僧正が貞観元年(西暦859年)に藤ヶ森(原田城二の丸跡)に入定し、500年を祈念し五輪の石碑が建立された。五輪の石碑の丸い部分のあちこちにけずり取られた跡があるが、この石碑の石粉は万病に薬効があると伝えられたため病弱の人々がけずり取った跡である。

大光院

平安時代の初期、弘法大師の高弟、柿本紀真済僧正が奥羽を巡錫の途中、貞観元年(859年)この地小松の山麓に精舎を建て、松光山長岡寺大光院と号したのを開山とする真言宗の古刹。真済僧正は、地蔵堂に弘法大師御作の地蔵大士を安置し、この寺の境内ががたまたま徳一上人古仏の成道跡であったため、小石を多く集めて一字ずつ経を書いて塚を築き、小塔婆を建てたので置霊(おいため)と言うようになり、この呼び方が一郡の名として置賜と呼ばれるようになったとも言われる。真済僧正は、貞観二年(860年)2月25日61歳で藤ヶ森(現置賜公園内)に入定され、現在も毎年2月25日に真済僧正忌法要を行っている。なお、平成21年9月8日には真済僧正壱阡百五拾年御遠忌法要が行われた。山形県指定無形民族文化財である小松豊年獅子踊は、徳一上人の郷愁を慰めるため里人が踊ったのが始まりとされ、毎年8月16日に当寺において奉納されている。

小松皇大神社

寛文8年(1668年)上小松村の肝煎佐藤作兵衛を筆頭とする村人により伊勢神宮遥拝所として創建され、はじめ伊勢の御師三日市太夫次郎配下の田中氏三代が奉仕し、後に米沢東町神明宮の蔵田御師によって守られた。御師蔵田家は神職であるとともに、上杉氏譜代の家臣として取り立てられ、越後時代には春日山城留守居役、甲州への塩輸送など、上杉謙信の活躍を支える重要な役目を担った。幕末の混乱期に米沢神明宮より当地に移り今に到る。上杉時代には、当神社に3回お参りすれば伊勢に一回参拝したことと同じだといわれ、近隣から多くの参拝者を集めた。俳諧・川柳の句会も盛んに行われ、その門前もまた花町として賑わった。

諏訪神社

奈良時代前期の和同年中(712年)御社殿が造営され、貞観12年(871年)に神階従五位下を授けられた置賜地方で最も古い諏訪神社である。伊達政宗は、社殿の造営、祭祀の復興、社領の献上を行い、後に米沢城主となった上杉景勝もまた、社領50石を寄進した。越後街道十三峠最初の峠である諏訪峠の入口にあり、小松村総鎮守として多くの参拝者を集めていた。参道の杉並木は樹齢300年を越え、その歴史を今に伝える。

東陽寺

鎌倉時代中期の文応元年(1260年)3月1日、天台円宗三部都法印亀明律師が当山奥に入定したことに始まる。それから約200年を経て伊達氏宿老家の原田氏が応仁2年(1468年)白鷹町の曹洞宗瑞龍院二世実庵祥参大和尚の高弟、九皐宥鶴和尚を招いて再興をはかり、山号を亀松山と名づけ菩提寺とした。原田氏十七代左馬介宗時の時代、天正19年(1591年)伊達氏の岩出山移封に従って当地を離れるが、今も原田氏の守り本尊釈迦如来胎内仏が伝わり、代々の墓(石造九重層塔一対)も当寺に残っている。

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